top of page
夢中文庫プランセ『鋼鉄秘書ですが、女嫌いなCEOの恋愛教育係を拝命いたしました!』
  番外編『愛するあなたに最高のおもてなしを』

 分娩室に、元気な赤ん坊の声が響く。

 

 いきみすぎて酸欠状態になった神宮司まどかは、ボーッとしたまま酸素マスクをつけられていた。

 

「おい、まどか! 大丈夫か!?」

 

 髪が落ちないようにヘアキャップを被った夫、時生が心配そうにこちらを見ている。

 

「……とき、……お、……さん……」

 

「いいから、少し安め。よくやった。ありがとう」

 

 命をかけて出産したまどかを目の当たりにして、時生は涙ぐんでいた。

 

 涙脆い面もある彼のその姿に、まどかは今の状況も忘れて温かな気持ちになる。

 

 産声を上げている赤ん坊は、百戦錬磨の助産師たちに適切な処置をとられていた。

 

「まどか、頑張ったな」

 

 時生の言葉は、先ほどとあまり変わりがない。

 

 本人も分かっているのだろうが、他に出る言葉がないのだろう。

 


 その後、まどかは二時間ほど休憩したあと、病室に移った。

 


 **


 紆余曲折を経て、まどかは時生と結婚し、ハネムーンを経て子を授かった。

 

 まじめな彼女なので、最初はネットでお勧めの育児書を取り寄せるところから始め、それを熟読し始めた。

 

 産婦人科の医師にも積極的に質問し、自分で〝緊急対策マニュアル〟を制作するほどだ。

 

「……あのなぁ、そこまでするのか? 何かもっとこう……、うちの母親に話を聞くとか、周りの出産経験者に話を聞くとか、生の声のほうが……」

 

 時生が少し言いづらそうにしているのは、まどかが樹里と縁を切ってしまったからだ。

 

 普通、妊娠した時は母親を頼るものだ。

 

 だが世の中のすべての妊婦が、素直に親を頼れる訳ではない。

 

 勿論、仲良くしている祖父母には連絡して、祖母からアドバイスを受けている。

 

 けれどまどかの祖母が出産した時代と、今とでは大きな環境の変化があるのは否めない。

 

 時生の従姉妹たちは、少し変わった性格のまどかを可愛がっていて「何かあったらいつでも頼ってね!」と言ってくれていた。

 

 彼女たちはお嬢様で既婚者なので、今後も色々学ぶ機会があるだろう。

 

「頼りたいとは思っているのですが、出産と一口で言っても、人それぞれな気がします。つわりも様々なタイプがありますし」

 

「確かにそうだが……」

 

 妊娠三か月のまどかは、先ほどから『子供の名前辞典』のページをめくっている。

 

 現時点、男か女かも分かっていない。

 

 いつも通り冷静なようでいて、さすがのまどかも動揺しきっていた。

 

「男の俺が言うのも何だが、出産って体験してみないと分からないだろう? まどかの言う通り、他の人の体験談を聞いても、必ずしも自分に当てはまるとは限らない。知識を頭に叩き込んでおくのも大事だが、まずは母体を大切にする事を優先しよう。食べる物、体調もそうだし、精神面もだ」

 

「……確かに、仰る通りです」

 

 まどかはパタンと本を閉じる。

 

「いざという時、俺は役に立たないかもしれない。必要に応じて動けるよう、せっかく作ったマニュアルを俺も読んで、まどかの求めている事を察せるようにする。協力して出産に臨もう。〝プロジェクト・第一子出産〟だ」

 

「はい!」

 

 取り組みやすい言い方をされ、まどかはグッと拳を握る。

 

「プロジェクトを成功させるには、ホウ・レン・ソウが大事になる。まどかの体調が崩れたら、いつものように冷静にホウ・レン・ソウができなくなる可能性もある。言葉に説明できなくなるぐらい、体調が悪くなった時を考えて、ホワイトボード等を駆使して、意思表示ができるようにしておこう。それを習慣化するんだ」

 

「了解致しました!」

 

 ビシッと返事をしたまどかは、いつもの調子を取り戻していた。

 

 

 


(無理もないよな)

 

 時生は母体にいい食べ物などを検索しながら思う。

 

 ハネムーンの時、まどかは〝結婚したあと〟の事を考えて少しナーバスになっていた。

 

『母親にろくに愛されなかった自分が、子供を産んで立派に育てられるのだろうか』

 

 その思いが彼女を雁字搦めにしているのは、ある意味仕方ない。

 

 人は身近な人の体験談をもとにして、自分も成長していく。

 

 樹里との関係が良好だったなら、今頃まどかは笑顔で母に電話をして、これからどうしたらいいか尋ねていただろう。

 

 出産する時は里帰りしたかもしれない。

 

 だがまどかはそれができない。

 

 赤の他人の出産、子育ての例はよく分からないし、ネットで調べたり本を読むしかない。

 

 祖父母や神宮司家の人が協力してくれるとしても、まどかは今とても心許ない気持ちになっているだろう。

 

(それを、夫である俺が支えるんだ)

 

 時生は自分に誓い、最近落ち込みがちのまどかを元気づけるために「肉でも食わせるか」と考えていた。

 


 **


 その後、まどかは時生と協力して妊婦生活を送っていった。

 

 つわりが酷くなった時、「それでも時生さんのご飯を作らねば……!」と思った挙げ句、最終的に鼻に丸めたティッシュを突っ込み、水中ゴーグルをつけて料理をした。

 

 帰宅した時生が盛大に突っ込みを入れたのは、言うまでもない。

 

 

 


 時生は仕事で疲れているはずなのに、積極的にまどかのウォーキングに付き合ってくれた。

 

 マタニティヨガなどを始めた頃になると、教室で新しい出会いがあり、妊娠の悩みを共有できる相手ができた。

 

 時生に彼女たちの話をすると、「友達ができたんだな」と言われてこそばゆい。

 

 

 


 浩二と悦子、時生の両親は、事あるごとに二人の住まいを訪れ、気遣ってくれた。

 

 へたをすると、まだ子供が生まれていないのに様々なプレゼントで家が埋もれてしまいそうなので、時生が一週間に一度は釘を刺している状態だ。

 

 それでも、出産後にすぐ必要になりそうな物などを買ってくれるのでありがたい。

 

 勿論、まどかの祖父母からも連絡があり、気遣われた。

 

 祖母はすっかり体調が良くなったので、祖父と共に一か月に一度ぐらい東京の住まいを訪れてくれている。

 

 父の太一は遠慮がちではあるものの、「まだ〝お父さん〟だから、何かがあったら頼りなさい」と言ってくれていた。

 

 

 


 すべて順調と思えていたが、一つ問題があった。

 

 時生は立ち会い出産を望んでくれていたのだが、まどかは渋っていた。

 

「結構生々しいと思いますし、私は時生さんを気にしていられなくなると思います。般若のような顔をして、この世の物と思えない叫び声を上げると思います。それに対し、時生さんは分娩室でできる事がほぼないように思われます。お気持ちは嬉しいのですが、無理をしなくてもいいですよ?」

 

 まどかはそう言って微笑む。

 

 彼が「立ち会い出産したい」と言ってくれ、少しネットで調べ物をした。

 

 そうしたら「痛がっている姿を見て怖くなってしまった」とか「出血や羊水を見るのが怖い」「夫が邪魔になる」「女として見られなくなる」などあって、良い面ばかりではないのだなと思うようになった。

 

 確かに時生が側にいてくれたら、心強いと思う。

 

(けど、時生さんに負担を掛けるぐらいなら……)

 

 そう思っていたのだが――。

 

「どうして俺を遠ざけようとする?」

 

 隣に座っていた時生が、体ごとまどかを向いて尋ねてくる。
 彼は半分傷付き、半分不機嫌そうな顔をしていた。

 

「……言葉の通りです。うっ!?」

 

 何気なく目を逸らそうとしたが、時生に頬を包まれ、顔を彼のほうに向けさせられる。

 

 時生はしばらく、まどかの目をジッと見つめていた。

 

 まどかは落ち着かない気持ちで、ソロリ……と目を逸らす。

 

「……お前、また余計なものを見たな?」

 

 言い当てられ、まどかは微かに瞠目する。

 

 その反応が〝当たり〟だと察した時生は、大きな溜め息をついて手を放した。

 

「いいから言ってみろ。なんて書いてあったのを見たんだ?」

 

 言われて、まどかは観念してネット記事で読んだ〝立ち会い出産のデメリット〟を口にした。

 

「はあああああ!?」

 

 時生は目を剥いたあと、猛然と怒りだした。

 

「おま、それどこのどいつのお気持ちだよ! 肝心の夫である俺の意思を無視して、ネットの言葉を鵜呑みにするなよ!」

 

(あ……っ)

 

 まさに時生の言う通りで、まどかはハッとする。

 

「しかも『怖い』ってなんだよ。妻が命がけで、自分たち二人の子供を産もうとしてるんだぞ? 妻に種仕込んだのは自分だろうが! 相手が人間で、内臓使って命を育てて、ようやく産もうとしてるっていうのに、血や羊水を見ただけで怖い!? ふざけんな!」

 

 時生の怒りの咆哮を聞き、まどかは目を潤ませる。

 

「挙げ句の果てに『女として見られない』だ? お前〝何〟と結婚したんだよ!? 自分の妻を、飯も食わねぇし、トイレにも行かない、ラブドールとでも思ってんのか!?」

 

 吐き捨てたあと、時生は怒りでギラギラとした目でまどかを見つめてくる。

 

 そして、静かに問う。

 

「まどか。お前は俺をそういう男だと思っているか?」

 

「…………っ!」

 

 まどかはブンブンと首を横に振る。

 

 彼女の反応を見て、時生は大きく溜め息をついて怒りを解放し、ポンと頭を撫でてきた。

 

「いいか? 一番大事な時こそ、ネットの情報なんかを鵜呑みにするな。俺の事で悩んでるなら、俺に相談しろ。俺の事なのに、どうして名前も顔も知らない奴の無責任な言葉を頼るんだよ。やってる事、違うだろ?」

 

「……はい。申し訳ございません」

 

 謝ると、時生は何度か頷き、さらにポンポンとまどかの頭を撫でる。

 

「体も気持ちもしんどいよな。胃が圧迫されるっていうし、体力つけなきゃいけないのに、最近あんまり食べられてないよな。そしたらエネルギーが足りなくなるし、気力も体力も落ちちまう。それでも『無事に元気な子を産まなきゃ』と使命感と焦燥感に駆られる」

 

「……はい」

 

 手に取るように理解されていて、まどかはいつの間にか強張っていた体から力を抜いていく。

 そんな彼女の顔を覗き込み、時生が微笑んできた。

 

「まどか、俺たちは夫婦でチームだ。困った事があったら?」

 

「……ホウ・レン・ソウ」

 

「ん」

 彼女の返事を聞いて、時生は満足げにニカッと笑った。

 

「俺は不安定になっているお前のつらさを、一から十まで分かってやれない。努力していても、『察してほしい』と思った時に望む行動をとれず、望む言葉を言えない可能性もある」

 

「……伝えます」

 

 時生の言いたい事を察し、まどかはコクコクと頷いて涙を零す。

 

「ん。お互い、言葉にしていこう。想い合う恋人同士でも、結婚した夫婦でも、心が一つな訳じゃない。寂しいが、俺たちは家族でも他人同士なんだ。だから言葉にして確認していこう」

 

「はい……っ」

 

 まどかはギュウッと時生を抱き締め、洟を啜る。

 

「第一子出産プロジェクトは、佳境に入ってるぞ。あともう一踏ん張りだ」

 

「はい」

 

「そのあとも、新生児子育てプロジェクト、一歳児子育てプロジェクトが年を追うごとに更新されていく。もしかしたら、第二子妊娠プロジェクトも始まるかもしれない。やる事が沢山あって、逃げ出したくなる事もある。そういう時は……、これだ」

 

 微笑んだ時生は、一度立ちあがると、電話台まで行って引き出しから何かを持ってくる。

 

 手にしていたのは、プロの印刷会社に頼んだらしいカードだ。

 

 割と大きめの、文庫本ぐらいありそうなカードには、悦子や浩二、まどかの祖父母や両親の名前、似顔絵、連絡先があった。

 

 そして余白には、その人物が何を得意としているかの詳細情報が書かれてある。

 

「これはお助けカード。思考停止になりそうなぐらいに困って、その時にもしも俺が側にいなかったら、これを見て考えてみるんだ」

 

 ゲーム好きな時生らしく、カードには蜘蛛の巣のような形のレーダーチャートがあり、『頼りやすさ』『連絡のつきやすさ』『子育て知識』などが一瞬で分かるようになっている。

 

「ふふ……っ、時生さんらしい」

 

「な、楽しんでいこう。人生はゲーム……とまでは言わないが、周りにある物、人を頼って如何に上手に生きていくかに限る。相談して、連絡して、頼って、お礼をして、また頼らせてもらって、時には頼ってもらって。そういうのの繰り返しだ。一人じゃない。抱え込むな」

 

「はい!」

 


 そのようにして周りに助けられ、まどかは第一子の男の子を翌年の四月頭に出産した。

 


 **


「ああぁ~~~! ああぁあああぁ……」

 

 号泣している三歳の善治(よしはる)を前にして、まどかはうなだれている。

 

 子育ては大変だ。

 

 大人なら様々な人がいて、すれ違いがあるといっても、大前提として義務教育を受けている。

 

 何かを言えばある程度分かってくれるし、丁寧に話せば理解してくれるかもしれない。

 

 しかし子供はそうはいかない。

 

 何が気に入らなくてご飯を食べてくれないのか分からないし、突如として泣き出した場合も、理由が分からずおたおたする。

 

 生まれたての頃は、お腹がすいた、おむつが汚れた、体に不調があるなどを疑い、その他の場合はよく分からなくて、とにかく抱っこしてあやし続けた。

 

 三歳になった今は、イヤイヤ期になり、癇癪を起こす事もある。

 

 一歳の妹までもがつられ泣きをするので、神宮司家の広々とした玄関にはイヤイヤハーモニーが響き渡っている。

 

 今は悦子たちと食事会があるので、出かけようとしているのだが、玄関先で善治が靴を履きたがらず、ぐずりだしたのだ。

 

「……困りました」

 

 善治の前でしゃがんでいたまどかは、弱り切った顔で夫を見上げた。

 

「なぁ、善治。何が嫌だ? じーちゃまとばーちゃま達、待ってるぞ? まず、靴を履こうか」

 

 そう言って時生が膝をつき、善治に小さな靴を履かせようとする。

 

 が――。

 

「くっくやぁああああああぁ!!」

 

 アンギャー! と恐竜の咆哮のように善治が泣き叫び、夫婦は困って顔を見合わせる。

 

(……困った。二歳児子育てプロジェクト、なかなかヘビーだ。しかしその長期プロジェクト成功の前に、今日のお出かけプロジェクトを成功させなければ)

 

 そう思っていた時、時生は仕事では顧客相手に商売をしているのだと思いだした。

 

(時生さんは大変だな。外でもお仕事をされて、家でも小さなお客様を相手に……)

 

 そこまで考えて「ん?」となった。

 

(お客様……。求めるもの、プレゼン……、購買意欲……、購入時のメリットデメリット……)

 

 まどかはチベットスナギツネのように鋭い目になったあと、善治が蹴り飛ばした靴を手に取った。

 

「あらー! お客様……! 素敵なお靴でございますね……!」

 

 まどかがいつもよりワントーン高い声を上げたので、時生はビクッとして妻を見た。

 

「この愛らしい丸っこいフォルム、そしてお小さいのに大人の紳士靴のような、洗練されたデザイン! まさに一流の紳士が履くにふさわしい逸品でございます!」

 

 善治もまた、母親を前に「こいついきなりどうした?」という顔をして目をまん丸にしていた。

 

「いいなぁ……。いいなぁ……。ほしい。こんな素敵なお靴があったなら、誰もがほしいと思うに決まっています! そんなお靴を持っていらっしゃるお客様! 凄いですねぇ……? まさに選ばれし者……!」

 

 善治はよく分かっていないものの、褒められてまんざらでもない顔をしている。

 

「いいなぁ~……、この靴、ママが履いちゃおうかなぁ~……」

 

 チラッと善治を見て、まどかはわざとらしくパンプスを脱ぎ、小さな靴に足を入れようとする。

 

「だめ!」

 

 それをとっさに善治が止め、靴をサッと取り上げた。

 

「あれ~? ……じゃあ、よっくん履きますか? 履いちゃいますか?」

 

 少し前のめりなってに言うと、善治は「んっ」と頷く。

 

「凄いですねぇ! この格好いいお靴を履かれるんですね!? 履かれたらきっと……、格好良すぎて、まるさんクッキーをあげたくなるかも……!」

 

 チラッと善治の好物のお菓子を匂わせると、ハッとした彼はいそいそと靴を履き始めた。

 

「すげーな、まどか。まるでやり手の営業のようだ」

 

「よっくんをお客様と思い、商品の価値を上げてからプレゼンし、靴を履いた時のメリットを強調してみました」

 

「子供相手にそう考えられるの、すげーわ」

 

「今日のお出かけプロジェクトを成功させるためです」

 

 キリッとして言うと、時生は「確かに!」と言って笑った。

 

 そのあと、子供たちをチャイルドシートに乗せ、まどかは助手席に座る。

 

「やべ、ちょっと時間押してる」

 

「少しぐらい遅刻しても怒られませんから、安全運転でお願いします」

 

「分かった」

 

 時生は車を運転し始め、お気に入りのゲームのサントラを流し始める。

 

「……今さら自分の趣味がどうこう、って言うつもりはないけど、子供も自然とオタクになるのかな」

 

 運転しながら時生が呟く。

 

「いいんじゃないですか? 今では普通に駅構内にアニメやゲームのポスターが貼られてあります。オタク文化が日本の立派な産業である事は変わりありません。恥ずべき事ではないですし、自然と好きになったなら、一緒に楽しめばいいのです。共通点が沢山ある親子は、会話が増えると思いませんか?」

 

「……そうだな。うちの親は理解はあったけど、一緒にゲームを楽しむタイプじゃない。子供の頃は『一緒に遊んでくれたらいいのに』とか『好きなキャラや格好いい技について語りたい』って思ってたな」

 

「親が子供の頃にしたかった事を、子供に押しつけて育てるのは違います。でも子供たちが自分から好きになったなら、一緒に楽しめばいいと思いますよ」

 

「そっか。……そうだな」

 

「はい」

 

 ゲームのサントラを聴きながら、まどかは時生と一緒に遊んだゲームを思いだしていた。
 少し経ったあと、時生が口を開いた。

 

「さっきの、本当に感心したよ。俺は親から目線で『靴を履かせないと』とか『どうしても駄目だったら、靴下のまま抱っこしていこう』とか、そういう事を考えていた。でもまどかは、三歳の善治の目線になって、何を望んでいるのか、どうしたら善治の興味を引けるのか考えた。……目から鱗だったな」

 

 ハンドルを握り前を向いたまま、時生は柔らかに笑う。

 

「結婚する前も、まどかは俺に寄り添ってくれた。『こうに違いない』という偏見を持たず、まず相手の立場になってみる。小学生の頃に『人の気持ちを考えなさい』と教わるけど、忘れちまう大人は多い。……まどかの凄さを知らない人は、お前の事を『少し変わってる』とか『コミュニケーションがへた』と言うだろう。でもそうじゃない。お前はずっと、相手の心の奥底に向き合ってきた」

 

 褒められて、まどかは笑う。

 

「大した事ではありません。大切な人をおもてなしする気持ちになれば、」

 

 空気を察する事ができない自分は、ただ相手の言葉をよく聞き、考えるしかできない。

 

「まどかにはずっとそのままでいてほしい。そういられるよう、俺が守る。他人の家の事なんてどうでもいいから、俺たちだけの家庭を築いていこう」

 

「……はい!」

 

 心地よいエンジン音を耳に、まどかは微笑んで目を閉じ、ヘッドレストに頭を預ける。

 

 そして呟いた。

 

「お誕生日おめでとう、よっくん。生まれてきてくれてありがとう」

 

 これからレストランに向かえば、神宮司家、鉢谷家の家族が善治の三歳の誕生日を祝ってくれる。

 

 出産したあと初めての事ばかりで、右往左往して困り果てていたが、これほど愛おしく大切だと思える存在はいない。

 

 彼が何をしても可愛らしく、打ち震えるほど尊い。

(あなた達のお陰で幸せです。〝母〟にしてくれてありがとう)

 心の中で呟き、まどかはとろけるように微笑んだ。

 完 

bottom of page